#16《 リンカーンと握手した唯一の日本人@ 》
             私の歴史散歩
                                      
                                                            2007.01.08
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時代はアメリカの南北戦争の頃である。
国務長官シュワードは、「大統領にあったかね」とヒコに尋ね、続いて「日本の土産話になるから、是非あって行き給え。われ等の偉大な人物リンカーン大統領に会わずして日本に帰ることはないよ」といってホワイトハウスへ案内した。
国務長官シュワードが、「私の若き友、日本紳士のヒコ君を紹介します」と言うと、リンカーンは、「これは、

近盛晴嘉著「ジョゼフ=ヒコ」 (吉川弘文館発行)より

これは、はるばる日本から来られたヒコ君にお目にかかれるのは喜ばしい」といいながら大きな手を差し出して握手した。
(この瞬間、ヒコはリンカーンとあった唯一の日本人として歴史に名を残すことになった。)
そして、リンカーンはヒコにニッポンについての様々なことを尋ねた。また、ヒコも「ヒコ自伝」の中でリンカーンの印象について、「リンカーン大統領は丈高く、痩せ形だが、手は大きく、髪黒く、頬ひげを伸ばし、フロックを着て、威あって猛からずとでも言うべきであろうか。もっとも誠実な人ともいわれ、一度あったものは永く仰慕し、人々から尊敬されている」と述べている。

このヒコとは、後に“日本の新聞の父”とも言われ、また“アメリカに帰化した日本人一号”さらに“リンカーンと握手した唯一の日本人”で名をのこした、「ジョゼフ彦」こと浜田 彦蔵である。

このジョゼフ彦については、兵庫県加古郡播磨町にある会社に所用でいったおり、「この小さな町からも幕末から明治にかけて大活躍した人物がでているのですよ」と、その名を自慢化に教えてもらった。

今回、そのジョゼフ彦について少し調べながら彼のゆかりの跡を探索することにした。
 

*** 兵庫県加古郡播磨町 ***
 

兵庫県加古郡播磨町は、昔は播磨の国と呼ばれていたところで、明石市と加古川市に挟まれた人口 3万5000人程度の小さな町であるが、南側の埋立地(人口島)には大きな工場が多数あり、財政は比較的豊かな町である。

ジョゼフ彦は天保8年(1837年)に、この町で漁師の子供として生まれ、彼が13歳のとき、養父の船頭に連れられて、江戸見物に行き、江戸から船での帰途の途中、遠州灘で暴風に遭遇し、50余日漂流の後アメリカの商船に救助され、米国に連れて行かれた。この“漂流”が播州生まれの名もない少年 に“わが国の新聞の父と呼ばれるような名声”をもたらすことになった。

*** 生い立ちと略歴 ***
 

先ず、ジョゼフ彦の略歴について、播磨町のHP、Wikipedia、他の関連HPや書物から、敷衍して紹介したい。

(以下、引用文)
ジョセフ彦は、天保8(1837)年8月21日に(今の兵庫県)播磨町古宮の漁師の家に生まれ幼名を彦太郎といった。1歳のときに父を亡くし、母は本荘浜田の船頭に彦太郎を連れて再嫁した。 嘉永3(1850)年10月29日、13歳のときに養父が船頭する船に同乗して江戸見物に行った。途中紀州熊で同僚の船頭の栄力丸に乗り換えて江戸に向かった。江戸見物を終え、故郷への帰途中、遠州灘にて暴風に遭い遭難。52日間太平洋を漂流中の彦太郎ら17名はアメリカの商船オークランド号に救われ、翌嘉永4(1851)年2月にサンフランシスコに到着。
アメリカは、漂流した彦太郎らを日本へ送り帰し、国交開始のきっかけをつかもうとし、翌年の嘉永5(1852)年3月、帰国のためサンフランシスコを発って、5月に香港に到着。そしてマカオでペリーの東インド艦隊に乗せる手はずをとったが、ペリーのマカオ来航が遅れた。このため同じく漂流した仲間の殆どは、中国船や他の方法で日本に送還されたが、彦太郎は米国人の世話人の薦めもあり、一行と別れて再び渡米することになった。

再びサンフランシスコに着いた彦太郎は、子供がいなかった富豪の税関長サンダースに可愛がられ、アメリカの中心であるワシントンや二ユーヨークに連れていかれた。彦太郎は米国東海岸に訪れた最初の日本人となった。ここで、二ユーヨークで初めて大きな建物や電信・ガス燈・汽車などを見て驚き、また、ワシントンでは、嘉永6(1853)年に時の大統領ピアースに謁見するという幸運に見舞われた。これは、アメリカ大統領と正式に会見した「最初の日本人」という栄誉であった。さらに、安政4(1857)年には大統領プキャナンとも会見している。

その後、彦太郎はサンダースの故郷のバルチモアのミッションスクールで教育を受け、安政元(1854)年にキリスト教の洗礼を受け、「ジョセフ」のクリスチャンネームを用いて、ジョセフ彦(ジョセフ・ヒコ Joseph Heco)と名乗るようになった。

安政5年(1858)には、日本からの帰化第1号としてアメリカの市民権を取得。
また、
バルチモアで教育を受けた後、さらにサンフランシスコ大学で勉強している。


祖国を離れて9年振りの安政6年(1859)、21歳のときに、領事館員として初代駐日総領事ハリスに伴われて開国した日本に帰国。ジョセフ彦は日米の格差に愕然とし、日本の近代化には幕府役人だけではなく、庶民一人一人の意識改革が必要と痛感する。その思いを持ちながら、ジョセフ彦は横浜にあるアメリカ領事館の通訳として、幕府との間で日米修好条約・貿易章程の締結や幕府の遣米使節の派遣などに奔走する。当時の通訳は全てオランダ語を介しての交渉であり幕末外交で、英語と日本語を直結で通訳でき重宝がられた。痒いところに手の届くようにしたのはジョゼフ彦である。

しかし、攘夷浪人から外人として狙われるようになって身辺が危くなったので、文久元(1861)年に3度日の渡米をすることになった。

この3度目の渡米中の文久2(1862)年に、ジョセフ彦はリンカ−ン大統領と会見する栄誉に恵まれ、民主主義の理念を伝授された。
  
南北戦争(1861年から1865年)の動乱をあとにして文久2(1862)年10月に、再度日本に帰ったジョセフ彦は、横浜で再びアメリカ領事館の通訳の仕事を始めました。
しかし、翌年9月には命を狙われやすい領事館を辞め、横浜にある外国人居留地で商社を開き貿易商に従事する。
ちょうどそのころ、リンカーン大統領の名言「人民の人民による人民のための統治」(原語"government of the people, by the people, for the people"を残した南北戦争の激戦地ゲティスバーグでの演説(1863年11月19日)とその反響を載せた「ニューヨークタイムズ」を目にする。そしてこのことを一瞬にして国民に知らしめた新聞の威力に感嘆し、日本での新聞の発行に挑み始める。しかし、その道のりは困難を極めた。
民衆にも知る権利があると主張するジョセフ彦は、情報を手元に置きたい幕府に厳しく監視され取材活動は全くできない状態で、攘夷派の浪士からは、アメリカ文化を持ち込む危険人物とみなされ、命を狙われた。


しかし、ジョセフ彦は「事実を正しく民衆に伝えること、そこに感動が生まれる」という強い信念のもと、命をかけて新聞発行へと突き進み、医師ヘボンの弟子だった岸田吟香(ぎんこう)や本間潜蔵の協力を得て、遂に元治元(1864)年6月28日、わが国民間による最初の新聞「新聞誌」を創刊した。
翌慶応元(1865)年5月には「海外新聞」と改題し、木版印刷で、いずれも和とじの書籍スタイルでの「海外新聞」は、1か月に平均2回、毎号の部数は100部程度で、ほとんど無料で配付した。

発行所は横浜の居留地にあるジョセフ彦の住居を兼ねていた。慶応2(1866)年11月に居留地内で火災が発生により新聞発行を断念するまで続き、その間号数は全26号を数えた。

「海外新聞」は、当時の諸外国の珍しい話題、事件、貿易の状況やアメリカ史略といった読み物も載せ、日本人に最新情報を提供した。他に金や海外の相場、在日外人の商店等の広告を載せたこともあり、貿易商人も興味を持ち、横浜居留地の内外人に好評を博した。

ジョセフ彦は、攘夷浪人が横行する幕末、開国ニッポンのために先進欧米の海外ニュースや自由の風土・考え方などを載せて世の中の事実と時代の変化を正しく伝え、当時開国の意気に燃えていた多くの人々に影響を与え、庶民の近代化に貢献した。しかも新聞を営利目的にせず、幕末の日本人の視野を海外まで拡大しようとした。

なお、ジョセフ彦の新聞創刊後、1870(明治
3)年12月8日横浜で「横浜毎日新聞」が創刊された。これは舶来用紙(洋紙)に本木昌造が開発した鉛活字を用いた活版印刷による日本最初の日本語による日刊新聞で、その後もいくつかの新聞が相次いで創刊されたが、これらの民間人による近代新聞はすべて「海外新聞」が原型となっている。
ジョセフ彦が発行した新聞は、日本民間人の手による日本人のための、わが国はじめての新聞であり、これがジョセフ彦が「新聞の父」と呼ばれている所以である。


また海外新聞とは別に、ジョセフ彦はリンカーン直伝の「人民の人民による人民のための政治」という民主主義を、当時の維新の志士の木戸孝允と伊藤博文らに伝え、彼らのその後の活動に大きな影響を与えた。この当時の写真が残っている。

(写真左から、伊藤博文、木戸考允、アレキサンドル(神戸大医学部前身の医学校の院長)、ジョゼフ彦)
:毎日新聞社:「元町点描」より

 
とくに伊藤博文については、 ジョゼフ彦から大きな恩恵を受けた。鳥羽伏見戦争の後、徳川慶喜は大阪を見捨てて江戸に逃げ帰ったが、このとき、ジョセフ彦から兵庫地方は無政府状態になっていることを知らされて、すぐに長州縁故の壮士を集めて空っぽの兵庫奉行所を占領した。新政府はその功績を高く賞し、たちまち伊藤博文を兵庫頭に任命し、その後27歳の若さで初代の兵庫県知事となった。ここより伊藤博文が歴史の舞台に出て大活躍するようになり、ジョセフ彦はその足がかりを与えたことになった。
また、木戸孝允も
ジョセフ彦から影響を受けている。

木戸は新政府の参議の中で一番新聞の重要性を知っており、明治4年に新聞紙条例を発布している。これは取り締まるというより、新聞の理念を示したもので、木戸によって作成されたこの条例の冒頭文は「新聞紙は人の知識を啓開するをもって目的とすべし。人の知識を啓開するは頑固・偏隘の心を破り、文明開化の域に導かんとするなり、故に内外を問わず、所存の事実を記し、博を約にし、遠を近にし,以って観者の見聞を広め、国家の為治の万一に裨益あらんを要す」と指導原理を示し、また彼の書簡には「政府のこととて、論じるべきことは少々論をなすほうがよろしきかと ・・・」、「人民ありての政府・・・」のように、政府は人民ありての政府であり、政府は新聞に干渉すべきではない、との言葉が多く見られ、ジョセフ彦からリンカーン直伝の民主主義を啓蒙されていることが伺える。

ジョセフ彦はこの他、長崎の高島炭鉱の開発、大阪造幣局の建設、渋沢栄一の下で国立銀行条例の制定などにも大きく関与している。

そして、幕末から明治にかけて政治・経済界を側面から支えた
ジョセフ彦は、明治30年に東京において60歳で亡くなった。彼は晩年“浜田彦蔵”という日本人に戻ることを強く願望していたが、当時は帰化法がないために、それがかなわず米国人として青山墓地に埋葬された。しかし、墓石には彼の母国へのせめてもの思いをこめてであろうか、“浄世夫彦の墓”の和名で刻まれている。この帰化法が制定されたのは彼が亡くなった2年後の明治32年である。

 

                                     (続く)

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