ゆうかりに乾杯  2011年(平成23年)4月30日 放送風景
                            ゲスト:何徳輝さん 、李瀛さん(49 陽会) 

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ゲストコーナ:李瀛さん、何徳輝さん(49 陽会)

華僑の「僑」は仮の住まいという意味。華人は現地の国籍を取得した中国人と言う意味。李さんも何さんも華僑である。李さんのお父さんは神戸中華同文学校の校長を45年間務められた。69歳の時に校長を辞めて2000年に亡くなられた。また李さんのご主人の弟さんは神戸中華同文学校の校長を今年で11年勤めた後辞められた。

今年の中華同文学校の入学に関する学生募集要項では、第1次募集は中華同文学校卒業生の子弟、第2次募集は華僑、華人、残りは外国人枠として日本人も入学できる。何さんの時代は華僑の子弟だけが入学できた。あこちゃんは今20歳になる娘を中華同文学校の幼稚園に入園させたかった。理由はゆとり教育がはじまり日本の教育に幻滅を感じたためであるが、震災のため交通手段がなくなり断念した。

その当時はすでにインド人やアメリカ人の子供が入園していた。中華同文学校に入学させることについては日本の教育委員会からうるさく言われる時代であった。中華同文学校から神戸市内の高校への進学についてはどこでも受験できた。ただし1校に集中しないように成績順に振り分けられ、各校4人位までと決められていた。

李さんはお母さんが生活のために独学でチャイナ服作りを始めその後ろ姿を見ていたので、大きくなったらお母さんの手伝いをしなければと思っていた。初めは東門筋に店があったがその後トアロードに移った。高校卒業後染色関係の学校で2年間学んだ後お母さんと5 年間一緒に仕事をした。その後独立したので20歳から47年間ほどブティックの仕事をしている事になる。

9年前には念願のファッションショーを行うことが出来た。18歳から60歳までの各世代のモデル20人に出演してもらい、(さくらさんもモデルとして出演)日本人に親しみを持ってもらえるよう、チャイナ服を理解してもらえるようにと考え、着物の生地を使ったり色々工夫した。チャイナ服は体にフィットした長いスリットの入ったものとの先入観があるが、品よく普段にも着れる服として、映画「慕情」に出演していたジェニファジョーンズが着ていた服を目指した。

華僑には老華僑と新華僑と呼ばれる人がいるが、日中の国交が回復し(1972年)、1987年以降の改革開放政策で海外に進出する中国人が増え、そのような形で日本に来た人を新華僑と呼び、一方それまでに日本に来て永住権を持っている人を老華僑と呼んでいる。従って李さん、何さんは老華僑である。華僑の代表的な仕事は中華料理(菜刀)、散髪(剃刀)、洋服(剪刀)といわれていた(これらを三把刀という)。

何さんは貿易関係の仕事をしていた。入社した頃は日本からは海産物、しいたけなどを東南アジアに輸出し、中国からは主にクラゲ、缶詰などの中華料理食材を輸入していた。当初はパスポ−トの関係で海外に行くことが出来なかった。国交回復前からやっと厚生省や法務省が人道的手段として特別許可をおろすようになり、香港経由で中国に行っていた。

国籍が中国であることによる不便なこととしては、当時はまだ正式な中国大使館はなく、会社としては台湾政府にパスポートを申請しても発行してもらえるような状況にはなかった。国交回復後は中華人民共和国の大使館が出来たのでパスポートを取得し行き来が出来るようになった。しかし共産圏からということでビザを要求される国があるためわずらわしい面が残っている。

神戸の華僑は台湾系と中国本土系が融和して仲良く暮らしているのは、中華同文学校において李さんのお父さんがそのような方針で取り組んできたためである。神戸にある華僑の有名な施設がたくさんあるが、関帝廟は葬儀に使われるが最近はお月見の宴も行われている。舞子の移情閣は戦前の神戸華僑の呉錦堂さんが別荘として建てたもので、戦後しばらくの間神戸華僑の青年会が管理し、華僑総会に移りその後兵庫県に寄贈したものである。

今は孫文記念館としての施設になっている。なお大陸と台湾の華僑が合併した神戸華僑総会の初代会長は李さんのお父さんである(1946年)。中華同文学校を日本人が注目しているのは、今世界を動かしているのは中国語と英語を使う人が大部分を占めているからである。

海岸通りにある華僑歴史博物館は明治の初期以降の150 年の歴史が展示されている。何さんは登山が好きで毎日40〜50 分歩いている。神戸には福建省出身の発起人が故郷の武夷山の名前をとった神戸武夷登山会がある。(佃記)